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- 2023.07.13 Thursday
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「諦める勇気」とした方がしっくりくるのではないか?と思いつつ序章を読んだ時点で納得。
「諦める」=「見極める」 という解釈であれば
マイナスイメージから一転、「諦める力」をつけることでプラス面にはたらくことに。
アスリートの著者は成功の裏でどんな「諦め」に直面したのか。
目標がしっかりしている場合、それを達成するための手段に行き詰ったとき、
そのいくつか(または全部)を諦めるのは決して負ではないということ。
誰もが認める花形競技100メートルから400メートルハードルに転向を決意した著者。
理由は、競技人口の多い100メートルより、ダントツで競争相手が少ないハードルのほうが優勝できる可能性が高いから。
卑怯なわけではなく目標(=優勝)を達成するための判断だったと。
その決断を賢明と肯定する者、逃げるのかと否定する者それぞれ。
自分が納得するか否か。ひとが納得するか否か。
日本人は何事においても忖度しがち。
周りの応援やスポンサー・関係者とのしがらみ等で本心を騙して現状維持している選手がいること。
「周囲が評価してくれているときに自分の感覚を信じて方向転換できる人は少ない」
引退した後の生活が見えない者。
自分にはこれしかない、という思い込みの危険。
踏ん切りをつけるのは本当に難しい。
「頑張ればできる」は万人にはあてはまらない。
向き・不向きがあることを早くから「悟る」ことが大事。
それを的確に判断できるかできないかが人生の限られた時間の有効活用に影響してくる。
進路を決めかねている子どもに「向いてないかもね」と方向転換を示唆するのも大切なこと。
石の上にも三年、はもう古い!?
入社早々転職してゆく人を安易に責められないのかもしれない、と思えてきた。
世間は「がんばって成功した人」という手本を作りたがるけれど
「がんばったけどダメだった人」には誰もからまない。
「飽きたから」と言い放って辞めたアスリートがいて、
「気が済んだ」から引退した著者もいて。
周囲は「もっと深い意味は??、、、」と物語を作りたがるけど、本当に理由はそれだけ。
エンディングで著者が書いたのは。。。
「成功という執着や今という執着から離れることで、人生が軽やかになる」
肩の荷を下ろしたくてこの一声を待っている人はたくさんいるのだろう。
選択は常にベターでありベストを認識することはない、とも言っている。
全部が終わった時にベストと判断されるのであって、全部が終わった時自分はいないのだから。
諦めることはマイナスではない。
2019年4月日本公開、ティモシー・シャラメ主演映画の原作(デヴィッド・シェフ著)を読んでみました。
5月に映画を観ました。
ビジュアル的に美しい映像の向こうのもっと深い主旨を知りたかったので。
************以下は映画「ビューティフルボーイ」公式HPより抜粋
デヴィッド本人により書かれニューヨークタイムズ・マガジン紙に掲載された『薬物中毒の我が息子(My Addicted Son)』という記事が元になったノンフィクション。
2008年に発売されると、アメリカ、エンターテインメント・ウィーク紙の年間最優秀ノンフィクションに選定、アマゾンの「2008年の最高の書籍」の1冊になるなど数々のメディアで絶賛されました。
*************
1982年7月20日にニックは生まれました。
新しい命の誕生は人生に喜びと希望を与える、はず。
ごく普通の熱量で息子を愛して過ごすこと3年。
まさかのデヴィッドの浮気が原因で妻ヴィッキと離婚してしまいます。
ニックを愛するがゆえに共同親権をとったふたり。
ニックは両親の間(遠距離)を行き来する生活を始めます。
幼くしてふたつの人生を送ることを強いられてしまったのです。
初めてニックのマリファナ所持が見つかったのは12歳のとき。
アメリカでは、子どもの成長過程でマリファナと接点をもつ機会はごく普通にあり
続けていくのか、一過性の経験として終わらせるのかが分かれ道となるようです。
依存の原因を作ったのは自分か
幼いころニックにさみしい想いをさせてしまったことが原因か
デヴィッドは自覚していました。
実際、ニックは両親の離婚後に「どこで寝たらいいのかわからない」とカウンセラーに吐露しています。
デヴィッド自身ドラッグ経験者だったことも隠さずにニックに伝えています。
それが功を奏したわけでないことは事実。
誰だってやってる。父さんだって。。。「よく言えるよね」 となるわけです。
その点においてもデヴィッドは間違いを犯してしまったのでしょうか。
自分の経験は隠すべきだったかと。
依存症患者をかかえた家族はまず何をすべきか。
患者にとって自分たちにとってどの道を選択するのが最善か。
援助を求めてより最適なリハビリ施設をさがすも情報が多すぎて決められないのです。
営利目的の施設もあるでしょう。むしろそちらの方がはるかに多いかもしれない。
入所したけどダメでした。また他のプロブラムを。。。と
藁をもすがる思いの家族から資金だけとりあげてゆく。
そう解釈されてもしかたないような現状です。
ドラッグ使用期間が短ければ短いほどやり直しの確立はあがります。
ガンは自分の意思で発症しないけれど依存症のきかっけは意図して起こります。
そして病原がはっきりしているのだからそれを絶てば治るのです。絶てれば。。。
アルコールであれドラッグであれ、摂取をやめて体内の毒を抜き徐々に浄化していけばいい。
理論上は誰にでもわかる簡潔なもの。それが難しい。
カウンセリング、施設でのリハビリを継続中でもほとんどが自分を抑制できません。
「再発は回復の通り道」と言われて納得することができるでしょうか。
カウンセラーにより見解はまちまちなのは仕方がないこと。
セカンドオピニオンが必要とされていることでもわかるように
治療の成功・失敗に絶対はないのです。
特に心理的交流が必要な病にとって患者とカウンセラーの ” 相性 ” が一番ポイントになると思います。
デヴィッドはジャーナリストゆえか根気強くリサーチをつづけた結果、
最終的にニックに合った治療法・カウンセラーに巡り合えたことがラッキーでした。
実際にデビッドは「自分たちはただ運が良かった」と書いています。
幸運をつかむ前に家族が闘いに挫折してしまうか、本人が命を落としてしまうパターンが多いでしょう。
家族(または関係者)一丸となってカウンセリングを受けることによって、
原因をさぐることができるし意図しない気づきを得られるかもしれない。
サポート無くして回復は難しいのだと思うとともに
結局は本人次第なのだとかなしく空しい結論に達します。
デヴィッドは再婚したカレンとの間に二人のこどもを授かります。
ニックの義理の弟と妹はお兄ちゃんが大好き。
ニックも二人を心から愛します。
この二人にも「依存症者をもつ家族」というくくりのカウンセリングが課せられます。
自分のせいで愛する人を窮地に追いやっていることは正気になれば理解できても
ハイになるとどうでもいいことになってしまいます。
患者も家族(支援者)も同じ時間、悩み苦しみ続けるわけですが
非難を覚悟で書いてしまえば、
患者はドラッグでハイになっている間は苦しみから逃避しているわけで、
そうじゃない家族は常に正気で闘っているという違いがあるわけです。
サポート側は
「今回までは助けよう」 しかし 「次には見放そう」 と決意したとしてもまた。。。堂々巡り。
患者本人も
「治りたい」 でも 「縛られたくない」「生きたい」「いっそ死んでしまいたい」。。。堂々巡り。
依存症を扱ったほかの作品のなかで、
サポート側(主に親族)が患者の「死」を願うことは咎められることではなく
ましてノーマルな心理状態だ、と諭されていたシーンを思い出します。
人生を狂わせられるのですから ” 愛 ” だけでは乗り越えられないことも明確です。
映画を観ながら、または原作を読みながら、
数回におよぶ再発の事実を知るたびに ” 自分が親ならどうするだろう ” と自問していました。
やはり、一度や二度は「死」で終結を願ってしまうでしょう。
ただ、デヴィッドはニックの死におびえたことはあっても、死を望んだ記述はありませんでした。
「ドラッグをやめてほしい」 より先に 「息子を癒してください」 としか願えない父親のはがゆさがしみじみ伝わります。
皮肉なことに、ニックを救うために得た知識を生かした活動がデヴィッドの新たなライフワークとなりました。
依存症についてさらに詳しく学び、後に「Clean」を出版しました。
同じ病気で闘っている家族の指南書となっているようです。
この著書でも
アメリカのドラッグ事情、政治的背景、国の対策についての改善提議などが最終章で詳しく書かれています。
たとえ20年ドラッグから手を引いていたとしても
完全に安心はできないということも覚悟しなければなりません。
デヴィッドのメッセージは「希望を捨てるな」です。
息子ニックの著書『Tweak』(=微調整)は日本語訳本が見当たりません。
ハンドメイドアクセサリー販売しています。
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『 スクラップ・アンド・ビルド 』 羽田圭介 文藝春秋 (2015/8/7)
無職の孫と要介護レベルの同居の祖父との交わりを描き、
笑える場面をはさみつつも、慎重に対処する必要性を問われる日常。
祖父の口癖は「はやく迎えにきてほしい」
天からのお迎えを待つ毎日は、自室の天井をながめて大半が終わる。
死にたい願望を口にするのを聞き飽きた孫は
自殺ほう助の罪をかぶらない程度の手助けをしてやろうと気持ちをたかめてゆく。
身の回りの世話を率先してやき、祖父自身から自立する力を奪ってゆく。
脳の働きをにぶらせ、体力をうばい、気力を失わせるように導く。
実の娘から容赦なく罵倒され、息をひそめるように生きている祖父。
板挟みの身ながら、「死の手助け」を決めた孫は祖父に変な意味でよりそう。
自分だけは、祖父に対して当たりを柔らかくしようと努力しても、さすがに瞬間的に爆発してしまう。
そして、我に返り反省。。。
自分が手を貸してやることで日常を過ごすことができていた祖父と別れ、
就職のため茨城に引っ越す道中、
自分よりも弱い人間が直近にいなくなったことで
あきらかに自分自身が最低の位置に落ちたあせりを感じる。
祖父の存在は自分のモチベーションをあげるひとつのツールだったのか。
うまく使いこなすことができないままツールを手放してしまった孫と
使い手を無くしてもなんとかやっていけそうな祖父との距離。
実際は離れたけれど、つながりはいっそう強まったのではないか。。。。
きっと自分がいなくても祖父は介護施設で ” 生かされて ” いくに違いない。
結構長生きすかるもしれないな。とも感じている。
そんな転機の場面で話は終わります。
同居・別居にかかわらず、老年の親または親族とかかわり、
「楽に死なせてやりたい。。。」そういう葛藤をかかえている人は少なからずいるはず。
高齢化社会を危惧する時代に沿ったテーマだったんだなという印象です。
又吉先生と同時に芥川賞を受賞した本書。
「火花」はNetflixオリジナルドラマとして世界で配信されているようですが、
こちらは某監督が撮ったら面白いんじゃないかな、とふと思いました。